育英事業を手がける公益財団法人三好園(さんこうえん)は、1911年(明治44年4月)に設立された『蓼沼慈善団』をその起源としています。創始者は四代目蓼沼丈吉で、その所有する財産および大隈重信公(早稲田大学創始者)を初めとする篤志家から寄せられた寄付金を基金として、奨学育英資金の貸与を始めました。
その後、事業基盤の強化を図るため、1919年(大正8年4月)に財団法人三好園と改組し、その事業と志は代々蓼沼家当主に引き継がれ現在に至っています。
蓼沼丈吉は、1862年(文久2年)栃木県安蘇郡岩崎村(現佐野市岩崎町)に生まれ育ちましたが、こよなく愛した出生地周辺が総称して"三好(みよし)"と呼ばれていたことから、"三好園"と名付けたと伝えられています。
丈吉は、豪商の血筋を受け、産業・金融・運輸などの事業に関わる一方、足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した田中正造翁が天皇直訴のため衆議院議員を辞任した後、その後継者として衆議院議員を務めました。政治的同志だった大隈重信公が書簡の一つ『我が安蘇の恩人及び同志に答ふ』の中に書き残しているように、丈吉は「与えて求めない政治家」として知られ、その名刺には「商人百姓兼衆議院議員」という肩書きが記されていました。
今なお続く育英事業が、この無償の精神によって支えられていることは言うまでもありません。
本財団の創立にあたり四代目蓼沼丈吉は、明治44年4月に次のような設立趣旨を残しています。
文明の進歩は一面人智を啓発し物質的発展を促がし、天下万民をしてこれが恩恵に浴せしむると共に、多面生存競争をして益々激烈ならしめ其の結果種々の社会問題を惹起するに至るは洵に止む得ざる所なりとす。世の識者経世家乃至宗教家が之を救わんとする念慮は一日も熄まず、然り而してこれが防止救済の方法として或いは社会組織の不備を論じ或いは思想の向上を説きて其の制度を改良し又は人心に慰安を与うるは是れ識者宗教家の職分に属すれども具体的救済の方法のみならず、進んでは篤学有為の青年にして資力なき者を養い其の志を成さしむるは実に世の資力ある者の当然の責務なりとす。これ余が微力をも顧みず本慈善団を起したる所以なり。
抑当蓼沼家が文化八年創業以来江湖の深厚なる眷顧を蒙り、今日の家運を見るに至りしは眷族の感謝に堪えざる所なり、而して余の父祖は常に無告の窮民を救助し又は公共事業に多少の余財を投ずるを以て自己の本分となし、不文の家憲として之を実行し、余も亦父祖の遺志を体し聊か育英並びに慈善事業に心を傾け、微力をこれに注ぎつつ今日に至れり。然るに本年は恰も創業満一百年に該当すると共に老母智恵子齢米寿んい達す。仍て其の祝賀を記念せんが為財産の一部を提供し一は以て父祖伝来の志を永遠に継承せしむると共に他面社会公共に対し聊か貢献する所あらんとす。此れに於いてか之が処分の方法を講究し法律の保護を受けるの最確実安全なるを信じ財団法人蓼沼慈善団寄付行為を作り政府に申請し内務大臣の許可を得たり依つて自今余は此条項に準拠して父祖の遺風を一層闡明し本団設立の趣旨を確実安全に且つ永久に貫徹せんことを期すと云爾。
財団法人蓼沼慈善団設立者
明治44年4月
蓼 沼 丈 吉
前理事長の遺志により財団法人慈善団を財団法人三好園と改称し同時に第六条を変更し其の手続きを了したり
大正14年4月
財団法人三好園理事長 蓼 沼 丈 吉
1862年 | 文久2年 | 0才 | 二代丈吉翁の二男として、安蘇郡岩崎村(現 佐野市岩崎町)に生まれる |
1887年 | 明治20年 | 26才 | 家督、家業を受け継ぐ |
1888年 | 明治21年 | 27才 | 下野石灰会社監督委員 |
1889年 | 明治22年 | 28才 | 葛生銀行幹事 |
1891年 | 明治24年 | 30才 | 下野織物会社監督委員 |
1895年 | 明治28年 | 34才 | 水戸市出張店開設 |
1897年 | 明治30年 | 36才 | 佐野鉄道会社取締役、葛生銀行監査役、佐野銀行監査役 |
1899年 | 明治32年 | 38才 | 栃木県会議員 |
1901年 | 明治34年 | 40才 | 衆議院議員 |
1905年 | 明治38年 | 44才 | 佐野鉄道会社社長、東明会副会長、下野新聞社監査役 |
1908年 | 明治41年 | 47才 | 栃木県農工銀行監査役 |
1911年 | 明治44年 | 50才 | 財団法人蓼沼慈善団創設(初代理事長) |
1913年 | 大正2年 | 52才 | 県知事より表彰、下野新聞社取締役、栃木県地方森林会議員 |
1915年 | 大正4年 | 54才 | 三好村長 |
1917年 | 大正6年 | 56才 | 葛生銀行頭取 |
1919年 | 大正8年 | 58才 | 蓼沼慈善団を財団法人三好園に改組(4月)、同年7月1日亡 |
原田勘七郎(旧姓前原) (はらだかんしちろう 1866年2月14日 - 1916年7月17日)
慶応2年生まれ、下野国安蘇郡作原(現佐野市作原町)出身の実業家。
旧東京高等商業学校(現一橋大学)中退。
東陽倉庫、帝国撫糸の創設に尽力し、名古屋市日本車輌製造株式会社を設立し専務取締役。
元名古屋市議会議員。-
中塚栄次郎 (なかつかえいじろう 1874年12月17日 - 0000年00年00日)
明治7年生まれ、栃木県安蘇郡新合村山形(現佐野市山形町)出身の実業家、政治家。
米国コロンビア大学卒業。帰国後、英文雑誌ジャパン・マガジン社長となり、文化活動に活躍、
また実業界に、政治界に縦横の手腕を古い、東京都会議員(大正14年~昭和34年まで選任)、
初代東京都教育委員長に選任された。東京倉庫運輸顧問、東京オリンピック大会組織委員会嘱託。 -
黒澤酉蔵 (くろさわとりぞう 1885年3月28日 - 1982年2月6日)
明治18年生まれ。
茨城県久慈郡世矢村小目(現常陸太田市)出身の実業家。教育者、環境運動家。元衆議院議員。
東京都私立京北中学校卒業。
北海道製酪販売組合連合会(現在の雪印乳業)、北海道酪農義塾(後の酪農学園大学)の設立者。
日本酪農の父と呼ばれる。 -
野口議蔵
明治16年生まれ。栃木県安蘇郡界村越名(現佐野市越名町)出身の実業家。
米国リンコルン・ジェファソン大学法科卒業。
日本人会の理事者として邦人の擁護指導と日米人親善の向上に尽力。 -
縫田栄四郎
明治19年生まれ。栃木県安蘇郡堀米町(現佐野市堀米町)出身の外交官。
佐野中学校(現佐野高等学校)第1回卒業。早稲田大学法学部卒業。北京、ワシントン、ボンベイ、
ペルシャ、マニラ、ブラジル等に歴任。フィリピン協会常任理事。ブラジル大使館参与官。 -
蓼沼憲二(旧姓田村)
明治22年生まれ。栃木県安蘇郡赤見村蓮沼(現佐野市赤見町蓮沼)出身の医学博士。
佐野中学校(現佐野高等学校)第2回卒業。東京帝国大学医学大学卒業。横浜医科大学付属病院長。 -
石川修三
明治25年生まれ。
佐野中学校(現佐野高等学校)第5回卒業。広島文理大徳育専攻科卒業。
栃木県佐野高等女学校校長。 -
島田磯吉(旧姓山本)
明治23年生まれ。栃木県足利郡富田村稲岡(現足利市稲岡町)
佐野中学校(現佐野高等学校)第5回卒業。千葉医学専門学校薬学科卒業。寿屋株式会社(現サントリー) 。 -
江森初三郎
明治25年生まれ。栃木県安蘇郡赤見村赤見(現佐野市赤見町)
栃木県師範学校卒業。東京高等商業学校(一ツ橋大学)中退。